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    図鑑から飛び立つ 笹野摩耶広島市現代美術館学芸員

    いつの時代も、人は鳥の美しい姿形に魅了され、手元に置いておきたいと考えてきた。すでに古代ローマ時代には鳥がペットとして飼われていたという。15世紀に入ると、航海技術の発展に伴い、日常的に見られる鳥だけでなく異国の鳥を採集して剥製を製作したり、鳥類誌のための博物図譜を作成する文化も広まった。個人的な話で恐縮だが、筆者もまた鳥に魅了されたひとりであり、バードウォッチングを趣味にしている。双眼鏡を手に公園や水辺を訪れ、野鳥の姿をレンズ越しにとらえると、出会った野鳥たちが頭の中にコレクションされていくような感覚になる。ただし、一瞬とらえた姿を記憶にとどめるだけでなく、実体として残せたら、という気持ちがよぎることもある。

    入江早耶は、驚くような方法でアメリカ・インディアナ州の野鳥を捕獲した。インディアナ州に生息する390種以上の鳥に関する情報がまとめられた野鳥図鑑『The Birds of Indiana』(チャールズ・E・ケラー、ラッセル・E・マムフォード、インディアナ大学出版、1984年)から26羽の野鳥の挿絵を消しゴムで消しとり、その消しかすを素材に、野鳥たちを小さな立体に変えたのである。《インディアナバードダスト》と題されたその野鳥たちは、野鳥図鑑や文庫本に似せたサイズのアクリルケースにおさめられ、カフェを備えた本屋の本棚にひっそりと配されている。さらに、作品には入江自身が制作経緯について綴った「合法的野生静物の密猟方法」という物語も添えられている。

    立体となった野鳥たちを見ると、種類ごとに異なる翼の形や複雑な模様が細やかに表現され、食べ物をついばむ仕草や、雛を世話する様子なども再現されている。野鳥画家による確かな観察力によって描かれた図鑑の挿絵の魅力を受け継いでいるといえるだろう。一方で、その姿からは、野鳥図鑑の野鳥とは異なる印象を受ける。作品の野鳥たちは、図鑑のなかの野鳥たちよりも、どこか気ままで自然な姿を見せているように感じられるのだ。

    その要因のひとつに、野鳥図鑑の鳥は平面的であることが挙げられる。絵画であるという意味だけでなく、図鑑が観察・調査結果としての性質上、挿絵は標本の代替であり、描かれる野鳥は分類学的な特徴や形態、雄雌の差異などを伝えるための情報としてあつかわれる。外見的特徴を識別しやすくするため野鳥は静的に表現され、対象の鳥以外の描写は省略される。野鳥図鑑『The Birds of Indiana』においても、野鳥が生息する水辺に茂る植物や、巣がつくられた木々などは野鳥の姿と同様に精緻にあらわされているが、その他の背景部分は描きこまれておらず、野鳥とその生態に関する情報を伝えることに重点が置かれていることが分かる。

    そして、図鑑では野鳥はそれぞれの個体ごとに紹介されているが、《インディアナバードダスト》では、一本の大木や一箇所の水辺に、異なる種類の野鳥たちが一緒に集まっている点も大きな違いである。たとえば、今まさに飛び降りようとするフクロウ、根元で羽を休めるカラス、木をつついて虫を探すキツツキ、巣を守るハトなどのように、異なる野鳥たちの営みが同じ場所で同時に繰り広げられている。また、一部の野鳥は、仲間に対して翼を広げるといった、図鑑には見られない独自の動きも見せている。それによって、様々な野鳥が自然のなかで互いに関係し合いながら生きている姿を想像することができる。入江は立体に起こすとき、平面の挿絵には描かれていない野鳥の体の部分を補うだけでなく、図鑑ではとらえきれない野鳥たちが暮らす情景やその場の雰囲気までも自身の解釈と想像によって表現している。だからこそ、作品の野鳥たちは自由で生き生きとした存在として感じられるのだろう。

    基本的に入江による消しかすを用いたシリーズでは、消しかすでつくられた立体と、もとのイメージがあった印刷物が一緒に展示されるが、この作品の野鳥たちは野鳥図鑑から独立して置かれている。入江による「物語」を読めば、作品がインディアナ州の野鳥に関する本を素材としていることは分かるものの、図鑑は別の場所にあるため、出自となる具体的な情報にすぐにはたどり着かないようになっている。挿絵の野鳥は図鑑の文字情報と不可分な関係だったが、入江の手によって図鑑から解き放たれた野鳥たちは、標本の代替としての役割からも自由なので、必ずしも図鑑のそばにとどまる必要はないのだ。(とはいえ、図鑑とあわせての鑑賞もおすすめしたく、気になる方はぜひ店主に声をかけてほしい。)

    ところで、日本神話ではカラスが「導きの神」として描かれたり、古代エジプト神話に登場する知恵の神がトキの頭部を持つ姿であらわされるなど、古くから鳥は「知」と結びつく存在とされてきた。なかでもフクロウは、ギリシャ神話に登場する学問・知識を司る女神・アテナ(ローマ神話ではミネルヴァと同一視される)と関係することから、「知恵や知識の象徴」として広く知られ、図書館や書店、出版社などのシンボルマークとしても馴染み深い存在である。インディアナ州で図鑑に描かれ「静物=still life(静止した生命)」となった野鳥たちは、この場所で図鑑から飛び立ち、象徴の役割を新たに担いながら、訪れる人びとの本や作品との出会いを見守っているのだろう。

    【個展図録『合法的野生静物の密猟方法』モラーズ、広島、2025年所収】

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    薬と神さま 吉岡洋京都芸術大学文明哲学研究所教授

    薬と神さま─この二人は、昔はとっても仲が良く、それどころか、そもそもどっちがどっちなのだかハッキリ区別もできないくらい、互いに近しい存在だった。

    昔の神さまは薬のような存在だったので、信じるといっても、それはたんなる心の問題ではなく、毎朝お勤めをするとか、神棚をお掃除するとか、ご飯をいただく前にお祈りを唱えるとか、ようするに信仰とはほとんど習慣の問題にほかならなかった。
    考えてみれば当たり前だが、規則正しい習慣に従って生活すれば、心も身体もたいていは健康を保てる。けれどもそうしたことに私たちはなかなか気がつかず、お賽銭をたくさんあげれば御利益があって当然、みたいに考えてしまう。不謹慎にも、神さまとギブアンドテイクの関係を持とうとするのである。だがそんなこととは無関係に、神さまが私たちの知らないうちにくださる恩恵というものがあり、昔の人はそれを冥利と言った。習慣としての信仰の基本にあるのは、そうした見えない恩恵の意識である。その上に、何か特別な御利益があればもちろん感謝すべきだけれど、たとえなかったとしても感謝は忘れてはいけない。だって冥利があるのだからね。
    一方、薬もまた神様に近い存在だったので、薬とは身体に入れると何らかの作用を生じる、ただの化学物質ではなかった。薬のまわりには何かモヤモヤした神秘的な雲、アウラが漂っていたのである。何をおいても、まずは効くと信じなくちゃ始まらない。そして薬を飲んで運よく病気が治ったとしても、それは本当にその薬の成分が効いたのか、それとも治ると信じた心の力で治ったのか、それはよく分からないし、追求しても仕方がなかった。さらに昔の薬はおおむね万能薬であって、いろんな症状や病気に効く、と謳っているものが少なくなかった。けれどよく考えてみると、なんにでも効くというのは、なんにも効かないというのと紙一重である。薬を用いるとは、この紙一重の上に身を預けるということを意味していた。
    それに対して今の世の中では、薬と神さまとはずいぶん離れ離れになってしまった。つまり薬は身体だけの問題、神さまは心だけの問題、というふうに別れてしまったのである。人々は物事を自分中心に考えるようになり、神さまであれ薬であれ、それに身を預けることをやめて、何事も自分にとって利益があるかどうかで、合理的に判断するようになった。そうなると薬も神さまも、効く効かないが決定的になる。薬は特定の病気を治したり症状を緩和するからこそ意味があり、神さまもそれを信じれば精神的な癒しとか心の安定が得られるというかぎりにおいて意味がある、ということになった。
    そんなこと当たり前で、それでいいじゃないか、と思われるかもしれない。けれども薬と神さまは、かつてあんなに一心同体だったのだから、こんなに別れ別れになってしまっては、寂しいのではないだろうか。そして薬も神さまも、あんまり離れすぎるとそれぞれの力を失ってゆくのではないか─そんな気もするのである。
    美術家の入江早耶はある種不思議な方法で、そんなふうに離れ離れになった薬と神さまとを、もう一度出会わせようとしているように、ぼくには思える。「百薬魔像ダスト」では、薬袋に印刷された薬名や、そこに描かれた鬼、人間、熊、図形などを組み合わせ、細密な聖像を作り出す。まるで神さまが次から次へと湧き出して来る、なんて言うと神さまに失礼かもしれないが、逆に言えば、人間の心だけに呼びかける今の神さまはあまりに尊く厳かな存在になってしまい、いたる所から生まれ出てくる過剰なエネルギーや、感覚に直接訴える親しみを失ってしまわれたのではないか。近代以前の日本には、本当にそこらじゅうに様々な聖像があって、私たちのご祖先はいわばそうした神仏に取り囲まれながら生活していたのに。
    入江早耶の作品は現代の民衆仏なのかもしれない、とも考える。民衆仏というのは、偉い仏師を頼んでお金をかけて制作され、本堂の奥に恭しく納められるような尊像ではなくて、たとえば円空(1632-95)のような旅僧が行く先々でその都度、いろんな素材から次々と彫り出してゆく、もっと人々に近く親しみのある仏さまの姿である。手の届かない超越的存在ではなく、生命力に溢れ、生き物と同じように産まれ増殖してゆく神仏たち─こうした、聖なる存在の持つ生命エネルギーは、実はアートを駆動するエネルギーにも直結しているのである。
    薬と神さまだけではなく、アートと神さまも繋がっている。「犬犬犬ダスト」では、掛け軸に描かれた三匹の子犬から、三つの頭と蛇の尾を持つ地獄の番犬ケルベロスが(でも可愛さは子犬のままで)湧き出してくる。二次元のイメージから三次元の実体が抜け出してくるということのなのだが、これは私たちがアートというものに対して抱いてきた古い想像力を呼び覚ますものだ。「傾城反魂香」や、左甚五郎にまつわる伝説にみられるように、精魂込めて描かれた絵から人や動物が抜け出したり、名工の彫った彫像が生きて動き出す、といった夥しい物語が存在する。そうしたお話を聞いて私たちが痛快に感じるとすれば、それは神さまと同様、アートも今日では心の領域に限定され、たんなる表象の問題と考えられ過ぎていることに、私たちが疲れてしまったからではないのだろうか?

    【個展図録『大悪祭』Zyakedo、広島、2022年所収】